昭和46年08月09日 朝の御理解



 御理解 第95節
 「世には神を売って食う者が多いが、此方は銭金では拝まぬ。神を商法にしてはならぬぞ。」

 神を商法にしてはならぬ。神様を生活の手段に使ってはならぬというふうに使ってもよいでしょう。」神様を生活の手段、ここのとこは教師、教会を持っておる者に対する厳しい御教えだと思いますね。銭金では拝まぬ。普通の宗教では、そういう例に漏れないのがありますね。幾ら幾らなからなければ、ならんと言った様なですね。例えばあのお守り札なんかそうです。お守りさん一体が幾らというふうに決まっとります。
 そう言う様な意味の事もあろうけれども、今日は私そこのところをです、教師とか教会でない、一般の者がここのところを頂いたらどう言う事になるだろうかと思う。神を商法にしてはならぬ。立身出世の為に、神様を拝むと言う様な、いうならば、金持ちになる為に、又は立身出世をする為に、神様を拝むというのでなくて、信心は何処までも自分自身が助かる事の為でなければならぬ。
 教祖様もこの方は人が助かる事さえ出来ればと、助かると言う事だから成程、今お金に不自由している人がお金を頂いたら一寸助かります。いろんな難儀な問題を抱えている人がその難儀な問題から開放されると言う事は、それは助かりにはなりますけれども、それが本当の助かりにはならぬ。ここで神様が求めておられるのは、これは二十年も前でした。私が神様から色々お知らせを頂かして頂いて、頂き始めの頃でした。
 或る教会にお話しに参りましたら、そこの先生が設計図ですね、自分で設計をしとられるのです。仲々頭の良い先生ですから、専門家がやったように、むごう設計図を書いておられました。ここが御神殿ここが御広前、ここが楽室とこちらは住居の方と、まあ成程私が行ったところの教会は、小さい教会でしたけどそういう夢、そういう願いを持っておられるわけである。折角教師にお取立頂いて、教会を持たせて頂くならば、将来はまあいうなら大先生と呼ばれ、大教会とも言われる様な教会を持ちたい。
 これは一つの夢ですね。ですから自分で、ひまひまにこういう御広前を建立したいなあと思うておられるのが図面になっとるわけです。大坪さんどうでしょうか、こういう夢を持っとるというて、見せられましたから、これは仲々立派ですなあと、専門家が書いたごとあるですねと仲々理想的で良いですねというてですね、先生から図面を借りてから、神様にお供えする思いでその事がこの先生の、お願いが成就するようにと思うてね、そうさせて頂きよったら、神様から頂く事がね。
 神は氏子の入った社には入らぬとおっしゃった。いわゆる、神は神が建てた社に入ると、よう私は先生が建てなさったという教会を聞きます。よう始末倹約してお金を貯めて、・・・私は先日誰からだったでしょうか秋永先生からじゃなかったでしょうか聞いたのですけど、東京の或る教会です、大変有名な教会、いわゆる、信者思いの先生といえば信者思いの先生といえますね。
 信者に無理をかけちゃならぬというので、自分でこつこつ貯められた金が相当貯った。成程、立派な教会が出来た。けれども今度は戦災でやられた。神様が建てなさったという教会ならね、そういう事にはならんとはいえないでしょうけれども、なっても同じようなものが出来る直ぐ。人間が建てとるとじゃけん仲々出来ん後が。如何にも信者思いのようであって、それは結局、先生が自力で建てなさったという事になる。
 食べるものも食べきらんで、お供えもせんならんところにもお供えしきらんで、こつこつ貯めなさった。そしてそゃが成程出来た。例えば大阪なんか、ああいう大変な空襲を受けた都市ですけど、隣近所は焼けたけど、玉水教会だけは木造建だけれども焼けなかったと。成程、玉水の湯川先生が建てなさった御広前じゃなかった、神様がお建てになったというふうに思いますね。
 それは神様が建てなさった所でも、それは火事になっ事もありゃ、あるけれどもそれならばです、私は本当いうたら、すぐそれが出来なければ嘘だと思う。人間の我力が入っとる。成程神様が氏子が設計したり、人間がいうならばその教師ですね、先生が設計したり、先生が工夫して建てた御広前、又はお宮には入らんとこう仰る。神は神の力で神が建てた家で、神が建てた御広前で働くと仰る。ここのところがですね、今日の御理解を頂きますと、いわゆる、神様をまるきり商品のように思うとるですね。
 神様にうんと働いて貰うて、そして自分が建てた様に思うとる。例えばこの御広前なんかそうでしょう。私が建てようと言いもせなければ思いもしない。勿論それは人間が建てなけれは建てようもありませんが、その人間のもひとつ向こうにです、神様の生き生きとした働きがあっておると言う事です。設計一つの上にでも、神様が直ぐに大工の真似をなさるわけはないけれども、神様が建てなさったなと、例えば一つのミスがあっても、成程神様がミスをさせなさったなと思われる様な御広前が建立された。
 ここはだから大坪総一郎が建てたのでもなければ、信者が建てたのでもない。やはり神様が自分で思い立って、神様がお建てになった訳。これをお客さんから建てて貰うたというならばもう商売。そう言う事になりわしませんか。そこでですなら私はどうでもよいかといつも思う。皆さん椛目の時代と同じであるようにですね。信者が増えれば御広前はどんどん広がって行く、けれども私は、神様の御社は私が信者時代に拝みよる神様。或る先生が言われた。
 神様だけは立派な檜造りの御神殿にお祭りしたい、信者の方はどうでもよいからというような事をいわれる。私は反対、神様はどけんところでん、こげんところに入らんとおっしゃる神様じゃない。沢山の信者が集まってくるなら、信者が集まるところこそ広がればよいのだ。私のこれは頂き方そして段々、いわゆる神様の働きが表れて、今日の合楽が建立されたわけです。大変意味が違うてくるでしょう。
 そこで私は、どうであったかというとね、もう様々な問題、様々な難儀というか、そういう場合にいつも私自身が、助からなければならないと言う事だった、どういうような荒波の中に、例えばあっても、荒波の中で自分自身が助かると言う事です。教祖様がおっしゃる。此方は人が助かりさえすればとおっしゃるのは。そういう意味においての助かり。それはまあ、今日私が申しております前提としてですよ、金の不自由している人は金のお繰り合わせを願う。
 不健康な人は健康のお願いをする、なら、それだけで助かるかと言うと、それだけでは助かってないのです。だから本当の助かりという事は、私自身が助かる事、私の心が助かる事、私の命が助かる事、私の命が助かる事、心が助かると言う事。昨日は丸少と青年会が合同で信心実習会をどこか大変遠い、普通の海水浴場じゃないところで、海水浴を楽しみながら、信心実習をさせて頂いた。もう帰らんならんという四時半頃だった、けたたましゅう助けて下さい、助けて下さいというてみえた。
 やはり本当の海水浴場じゃないから、人が少なかったんでしょう。それがやはり、沖の方で溺れておられるわけですね。それでその方の、御兄弟に当たられる方達、二人兄弟で助けにいかれたところが、三人が溺れだした。何も道具も持たない人で沖の方ですから、昨日は非常に波が高かったそうです。ですから波にのって、浮袋を持ってですね、泳ぎよる面白うてたまらんごとある。大きな波にのってこう行くから、そして段々沖へ沖へと行くわけです。
 そしてどんなに泳いでも泳いでも、ぐるぐる廻って、浜辺の方へつかないという、状態であったということです。ここでもやはり、則子さん達かな、女の方達が二人そんなふうで、沖の方へ出ていってから、帰ってこられんわけです。それはまあ、浮袋を持ったからよかったけど、それを迎えに行かにゃならんというので、縄をずっとひっぱって、縄でひっかけて、ひきあげて帰ってきた。そのすぐ、直後だったそうです。だから縄が出来とるわけですね。
 だから泳ぎに自信のある若い5,6人の人達がやったんですかね、それはもう大変な事だったらしいです。行った五・六人の方達も、帰ってこられんかと思う位あったそうです。助ける方にばかり気をとられとるので、家の下の五・六人の方達はですね、もう死にものぐるい、それこそ足が棒のようになって動かなかったそうです。泳いでも泳いでもこっちへこられん。それで三人の人を引き上げたと言いますがね。
 助けてきて、一人の一番はじめに溺れた方は何かお医者さんだったらしい(九州歯科医大教授、小倉)ですね、家族十三人で来てあったらしい。それで沖にでて帰ってこられんので、助けてくれという事だったらしい。兄弟が助けに行かれたけれども、それこそ浮袋一つ持たずに行ってあるので、自分達も一緒に溺れた。私は昨日、それを聞かせて頂いてから、昨日、ここで聞きます時に、お届けがあった時に頂きました御理解が、今日の信心実習はね、信心倍増と頂いた。
 信心倍増、今合楽で盛んに一つの運動になっとります、信心倍増運動です、そういう一つの一環としての働きが、沢山の暇と時間を作って、神様に御粗末、御無礼がありわしないだろうかと懸念はあった。だからその事をお詫びしょった。そしたらそげな事じゃない、今日は信心倍増の神様の働きが、その実習会の上に表れると言う事じゃったんでしょう。それはですね、一日海水浴を楽しませて頂いて、帰ろうかという時分にそう言う事じゃった。その時助けてくれというのが本当の助けてくれですよ。
 とうとう一人はね、人工呼吸したけど呼吸を吹き返しなさらんじゃったそうです 二人の方を上げた時にはもう、こうぐたっとなってあったそうです、それがおかげで二人は助かった。合楽から行っとらんんなら三人ながらもう死んであるのです。もう大変な事でしたと帰って見えましてね、私も実は驚きましたけど、そういう意味での信心倍増とか、信心実習になるのが私も夢にも思いはなかったですけど、そういう溺れておる人が、助けてというのが本当の助けてくれなのですよ。
 だから私共がですね、いわゆる助かりたいというのは、どうぞお金のお繰り合わせを下さいとか、信者が沢山教会で言うなら沢山お参りしてきて、そして立派な御広前ども建てさせて貰おうと言った様な願いの所の先生の所にはね、まず建たんでしょうね。建ったところでそれは人間が建てた御広前ですからたいした事はありません。成程神様が始め、神様が建てなさったんだなと、だから問題はね中心であるここでいうたら私、皆さんのお家でいうなら、皆さんの一人一人が本当の助かりを願わにゃならんのです。
 今金がないとか、体が悪いとかいうのは、ほんなこっちゃないとです。本当に自分自身が助かれば、そういうのはついてくるのです。神様が助けて下さる、こっちが助かりゃ、どういう場合にあってもそうです。どういう荒波の中にあってもですね、自分が真実助かっておるならば、本当の泳ぎを体得しておるならばね、荒波も切り抜けて行く力が頂けるはず。私共が助けを求めると言う事はね、それは神様の願いでもある。
 又、私共も助かりたい、助けたいもの助かりたいものが、相対して助からないのはどう言う事なのか、それは私共の心自身が助かってないからです。そこでなら助けたいもの、助かりたいものの中に、ポンと柏手のすれば音の出るように、音が出なきゃならんのに音が出ないとするなら、この中に何か障害なものがあるのだ、必ずそれが自分自身が助からない癌なのです。だから信心は日々の改まりが第一と仰るのがそれなのです。自分が助かる為にはどうしても改まらにゃできん。
 改まらなければ本当の助かりにならん。神様が如何に助けたい、私共が助かりたいというても本当の助かり、だからあらゆる場合にです、その事のおかげを頂くと言う事よりもです、私自身が助かる事の精進を本気でする事が本当だと言う事になる。そこで信心とはですね、偉くなる為にでも、賢くなる為でもない、これをお道の教師でいうなら、大先生になる為にでもなければ、大きな御広前を建てる為でもない。その取次者先生自身が本当に助かることの為にあるのだ。
 皆さんの場合は、皆さん自身が本当に子供じゃない、主人じゃない、誰かれじゃない私自身なのである。だから私自身が助かる為に、助かる事の出来ない癌を、本気で見極めてそれに取り組まなければいけないという事。昨日或る方が、お花の免状を取られた。お弟子さんをとられた。それで御造営がはじまるから、その月謝の全部を御造営費に御供えしたいとこういう。だから出来るだけ沢山のお弟子さんが欲しいとこういうわけであります。神様の為に私はお供えする。
 如何にも立派なごとあるけどもね、実際は立派じゃない。お金を儲けさせて下さい、そしたらお供えするけんでというような考え方である まあ、いうなら健気な考え方でありますよね。弟子を取る、その月謝の全部を御造営にお供えするというのですから、そういう事より自分自身が本当に助かられるという事、まあ本当に腕を磨くと言う事、あの先生から習わして貰わにゃと言う様なです腕を技術をまず磨かなければです、弟子がついてくるものですか。
 そこに神様のおかげに引掛けて、これは取次者にもその事がいえる、沢山の信者を集めて下さい、集めた所で助けきらんならどうするか、だから私はお導きせろとはいわんのです その力を知ってる皆さんが、導け導けといきなりいわれたって、助からにゃできん。こちらの力の程度なのです。だから皆さん自身が本当に助かってその助かった喜びが次の助かりになって行くと言う様な事でなければいけないと思うからです。
 それよりかです、私自身が千人助けるよりか、二千人助ける力を頂く事が先でしょうが その力はどこから出てくるかというと、私が助かると言う事から出てくるとですよ 私が助かる度合いがいうならば、親先生にも大先生にもこれは人が、人がというよりも神様が下さるのである。自分があぁなろうこうなろう、立身出世しようなどと言う様な事ではおかげにならんです。偉くなる為でも、賢くなる為にでもない信心とは私自身が本当に有難うなる稽古だといわれるのも、そういうわけである。
 だからそういう、私が本気で助かる、私が有難うならして頂く事を条件としての、これが願いであれば又別ですね。これは私がね、お互いが痛い、痒いがあります、それを治して下さい、様々な目先の難儀があります。その難儀から開放されたい、そういう願いをかけておかげを受けて、そして神様の働きをわからして頂いたら、それからこっちの話しです今日の話しは。それからの事は、本当に目先の助かりでなく、本当に自分自身が助かるという事なのです。
 と言う事になるとです。信心が商法にもならなけれは商売でもない。私自身が助かる事の為に、私がお供えしますからおかげ下さいというのは、まるきり商売と同じ事じゃないですか、ね、条件がある。昨日或る方がお届けされた。嫁さん恵子さん、名前が恵みの子、それが昔の漢字で書いてある。中に一本棒が入ります点かね、今の新漢字はそれがありません。すぐ下に心という字が書いてある。妙なものですね。新漢字が出来たら、もう古い漢字は嘘言のような感じがしますね。
 それで私が、どうしてこげな、古い漢字を使うのかと聞いたら、これはもう生まれるとき画数でね、つけとる姓名学からいうと、画数があるわけです。だからそれを取ると、画数が悪うなる、二つ棒と点が欠けるから、やはり姓名学からいうと、そう言う事があるらしいですね。私の大坪総一郎なんか、もう絶対徳を受けて、しかもそれは、子に孫にまで続くと言う事ある、私の名前は大坪総一郎という、名前はそうである。だから若先生が言いよります。
 どうでもこうでも、襲名してから、二代大坪総一郎継がせて頂こうと言う様に、姓名学からいうと素晴らしいそうです。もう隙のない名前だそうである。やはり一つの学問になっておる位ですからね。そうかもしれません。又そうかというと、石川五右衛門という名前はね、大泥棒になるごとある名前でしょうから、やはりいけません。けれどもここに信心があれは石川五右衛門であろうが大坪総一郎であろうが同じ事、それが私がそういう事のというていたらね、妙賀の花を頂いた。
 妙賀といえば信心の喜びの妙ということ。信心によってね、生まれてくる喜び、いわゆる有難いという心。真に有難いという心の前には、家相もなければ、人相もない、姓名学もない。どういう悪い運命であっても、それを消すだけの働きのあるのが信心の喜びだという事。してみるとその信心の喜びがですね、財産を作り、その信心の喜びが大先生であり、大信者であらなければならないとう言う事になります。
 もう喜びの前には何にもない。名前替えする事もいらん。家相を見る事もいらん。成程お取次を頂いて、家を建てるなら、使い勝手のよいのが、よい家相じゃと言う事がわかるでしょう。どういう名前であっても、親がつけてくれた名前がお取次を頂いて、頂いたお名前なら、間違いがない事がわかるでしょう。金光大神の喜びをもっての、お取次だからなのです。だから私が本当に助かると言う事は、どういう例えば、荒波の中にあっても、どういう難儀の中にあっても、難儀を難儀と感じんで済む。
 いや有難いという心、喜びの妙にひたらして頂くと言う事が、私自身が助かると言う事なのです。だから此処で沢山の人が助かりますように沢山の信者が集まりますように、立派な御広前が建てられますようにというて願うても、神様はおかげは下さらんとでしょうもん。私は信心致しますから、私がいよいよ助かる事の為に精進したしますから私がいよいよ助かる事から、教祖様の人が助かる事さえ出来ればと仰った事は教祖様御自身もね、御自身が助かりさえすればという事だったと思うですね。
 御自身が助かっておいでられる。その度合いが人の助かる度合いになって行った。金光大神の喜びが、お取次の働きになってくる。だからそこには、姓名学もなければ、人相学もないという程しに、金光大神の喜びによって消えてしまうのです。悪い運命なら悪い運命が、立身出世の為でもない。偉くなる為でも、賢くなる為でもない。億万長者になる為でもない。私自身が助かる事の為に信心と言う事になりますと。神様の願い、私共の願いが一つになるように思います。
 その助けたい、助かりたいの中に、邪魔なものがのかって行くと言う事が、改まって行くと言う事なのです。だから両方が、ポンと柏手のような音になって、おかげが表れてくるのです。立身出世の為に、信心しておるという信心は、私は神様を商売に使うようなものだと思うですね。ここは教会、教師、または取次者に対しての御理解だと思いますから、そういうてです、大先生にいっちょどうでん、こうでんなろう大きな、お広前を建てさせて貰おう。
 いっちょ頑張らして貰おう。そう言う事で如何に頑張ったところでです、よし出来るかもしれませんけれども、それは本当の事ではないですね。教会長自身が、私自身がいよいよどのような中に投げ込まれてもです、助かっておる自分であると言う事。どのような中にあっても喜びの妙にひたっておられると言う事、そういう助かりを願うて、本気で改まっていく先生のところにならば、もう絶対、それこそ神が自分の入る社は、自分で建てると仰る様な神様が、この御広前を建てなさったんだと。
 思わにゃおられないような、御広前の建立も出来りゃ、神様が助けて下さる為の、信者氏子も次々とおかげを頂く事と私は思います。だから此処では、私がより、もっともっと助かっていかねばならないという事になる。皆さんの場合でもそうです。今日はお金のお繰り合わせをお願いしょうと思いよった、今日は病気の事もお願いしようと思いよった。人間関係の事も、いっちょお願いしようと思いよったばってん、この御理解頂いたけんお願い出来んと言う様な事ではない。
 願わにゃ痒かなら、痒いと願わにゃいかんけれども、そういう難儀を通して、いよいよ私が助からなければならんという。それと並行したものがなからなければならないと言う事。それが本当の願いと私は思う。自分がおかげを頂く、頂きたいと思うからこうして下さい。まるきり神様を商法に使うような信心では、決して本当のおかげにはなってこんと思うですね。
 どうぞひとつ、本気でね、教祖様がおっしゃっる、此方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんとおっしゃるのはその事なのです。喜びの前には、もうどのような災難も、どのような悪い運命も、それこそ霜に煮え湯をかけるごとしである。喜びの前には。だからその喜びを目指した信心でなからなければならん。喜びを目指すと言う事は本当に私自身が助かると言う事なのです。
   どうぞ。